蓮如上人の御生涯 4
「青蓮院での得度」
お母様と別れたあと、蓮如上人がどのようにすごされたのか、残念ながら資料はほとんど残っていないんだ。だから子供時代のことはよくわからないのだけど、決して裕福ではない経済状態や母がいない中での家族との関わりということを考えても、恵まれた状況ではなかっただろうし、さびしくつらい時を過ごされたんじゃあないかな。
当時の本願寺は、祇園社(現在の八坂神社)の北、青蓮院の南にあった天台宗白毫寺のかたすみにある、五間四面の小さなお堂だったよ。このお堂が親鸞聖人の廟所で、本堂となる阿弥陀堂はまだなかったんだ。今日の大伽藍からは想像できないほどささやかな存在だったんだよ。
後に本願寺の熱心な門徒となる近江高田の法住は、「人跡たえて、参詣の人一人もみえさせたまわず、さびさびとしておわします」と、当時のもようを伝えているよ。
また、蓮如上人の息子の実悟さまは、「人あるともなく、さびさびと御入候つる」と、古老(敬聞房龍玄)の回想を記録しているから、規模が小さいだけでなく、末寺も門徒も少なくて活気がなかったようすが伺えるね。
親鸞聖人の弟子たちがつくったほかの教団、関東高田の専修寺や京都の佛光寺、越前の三門徒派の寺々はいずれも大人気だったんだ。参詣の人が群れをなし、門前に市をなす盛況ぶり。それに比べて、聖人の血脈を伝える本願寺のさびしい様子は、言葉にできないほどの哀れさだったんだよ。
15歳になった蓮如上人は、「ぜひとも開山聖人(親鸞聖人)の御法流を興したい」と決意されたと伝わるよ。そして2年後の17歳の夏、青蓮院で剃髪を受け得度されたんだ。
この青蓮院は、親鸞聖人の剃髪・得度も行っていて、それ以来本願寺では代々青蓮院で得度を受けることとなっていたよ。
名を兼寿とあらため、法名を蓮如、後に法号を信証院と称することになり、ここに僧侶・蓮如上人が誕生されたんだ。