蓮如上人御一代記聞書3
「弥陀を一念たのむとき」①
ある時、蓮如上人は、加賀(今の石川県)から来た願生さんと覚善さんに対して、こう語られたよ。
信心といふは弥陀を一念御たすけ候へとたのむとき、やがて御たすけあるすがたを南無阿弥陀仏と申すなり。
加賀といえば、蓮如上人が数年住まわれた吉崎御坊のあたりだから、熱心な信者さんのたくさんいたところだよ。そこから来た二人のお弟子さんに説かれたのが、この言葉なんだ。
一般に信心といえば、仏様や神様に健康や商売繁盛など、この世の中での幸せをお願いして祈ることをいうね。でも、浄土真宗の信心はそういうものじゃないらしい。では一体どういうものなんですかということで、「上人、とどのつまり、浄土真宗の信心ってどういうことなんですか。どうか教えてください」と二人がたずねられたんだ。
上人は、「信心というのはな、私たちの勝手な願いで起こすものじゃない。阿弥陀様の「どうか助かっておくれ」という願いから起こるものなんだよ。「お前を救うぞ」の仰せを聞いて、「お救いください」と阿弥陀様に身も心もすっかりおまかせしたそのときに、ただちにお救いくださること、これを信心というんじゃ」と説かれたんだ。
信心というと、どうしても「信じる」というところに力を入れてしまうね。自分は信じる心が足りないとか、もっとしっかり信じなきゃとかね。でも蓮如上人はそうはおっしゃっていない。信心で大事なことは「聞く」ことだとおっしゃっているんだ。
みんなは名前を呼ばれたらどうする?「えっと、僕の名前が呼ばれたな、じゃあどうしようか」なんて考えず、「はい」と返事して手を上げるね。「お前を助けるぞ」の呼び声を聞いて、間髪入れずに「そうですか、ありがとうございます」というのが信心なの。そして「はい」の返事に当たるのが、南無阿弥陀仏のお念仏さ。こうして称える念仏は、阿弥陀様の救いのはたらきそのものなんだよ。