蓮如上人御一代記聞書10
「その籠を水につけよ」
ある人が、「わたしの心はまるで籠に水を入れるようなものです」と、蓮如上人に悩みをお話になったよ。ご法話を聞いているときは、ありがたい、尊いと思うけれど、その場を離れると、たちまちもとの心に戻ってしまう、どうしたらいいんでしょうかと打ち明けられたんだ。
ここでいう「籠」とは私のこと。そして水とは仏法のこと。聴聞を重ねて仏さまの教えをこの自分にため込もうと思うけど、私が籠のように穴だらけなので、そこから法がもれ落ちてしまう。これではいつになっても法の水をためることができず、自分はちっとも成長できない。どうしたらいいでしょうかということなんだ。
蓮如上人は、
その籠を水につけよ、 わが身をば法にひてて おくべき
つまり、「その籠を水の中につけなさい。わが身を仏法の水にひたしておけばよいのだ」と答えられたよ。
仏法は確かに尊い教えだし、聞けばなるほどと納得させられるけれど、大事なのはその法を覚えてためていくことじゃなく、どんなに尊い教えを聞いても自分がちっとも変わらない、よいものになれない、聞いたそばから忘れていく籠のような自分でしかないことを聞かせてもらうことなんだ。
では、そんな自分という籠を仏法の水にひたすとはどういうことだろう。いつもいつも、寝ても覚めても仏法聴聞し続けるってことかな?でも現実には、学校もあるし仕事もあるし、聴聞し続けるなんてできないね。
阿弥陀様の光は、いつでもどこでもみんなを照らしてくれてます。お寺で聴聞している時だけじゃなくて、みんながごはんを食べてる時もテレビを見ている時も、友達とけんかしている時も、いつもいつも照らしてくださっている。私が忘れても、私を忘れない阿弥陀様がいらっしゃる。その光に、阿弥陀様のお慈悲に心をよせることが、「籠を仏法の水にひたす」ということなんだ。
どんなに聞いてもいい人になれない、そんなだめな自分にこそ阿弥陀様の願いがかかっているよ。そのまま来いよの願いを聞いて、自分に見切りをつけて阿弥陀様にお任せしていくこと、それを蓮如上人は「籠を水につけよ」と教えてくださっているんだよ。