蓮如上人御一代記聞書15
「真実信心の称名」
あるとき蓮如上人は、親鸞聖人のご和讃を引いてお話になったよ。
真実信心の称名は
弥陀回向の法なれば
不回向となづけてぞ
自力の称念きらはるる
真実信心の称名は、阿弥陀如来から衆生に回向された行なんだってね。
回向とは「転回する」「変化する」という意味のことばで、普通は自分自身の積み重ねた善根功徳を他者や亡くなった人に振り向けるという意味のことばさ。
でも、ここでの回向は自分から誰かという方向じゃない。阿弥陀様から僕たちに回向されるということなんだ。よくいう回向とは違うものだから、不回向というんだよと言われている。
そもそも、煩悩の塊でしかない僕たちからは、どんなに絞り出そうとしても、「真実」なんてものは出てこないの。それなのに、信心や念仏、喜ぶ心ぐらいは僕たちの中から出てくるように思っている。そして、念仏が足りなかったり喜ぶ心が出てこないと、自分を叱咤激励して信じよう、喜ぼうと努力する。残念だけど、方向違いと言わなきゃいけないよ。
蓮如上人は、
弥陀のかたより、たのむこころも、たふとやありがたやと念仏申すこころも、みなあたへたまふゆゑに…
つまり、阿弥陀様におまかせする信心も、尊いことだ、ありがたいことだと喜んで念仏する心も、すべて阿弥陀様がお与えくださるんだと教えてくださっている。そして、ああしたらいいか、こうしたらいいかと計らって念仏することを、それは自力の念仏で本当の念仏ではないぞとおっしゃっているんだ。
汚れた雑巾で窓ガラスをふいても、ガラスはきれいにならないね。かえって汚れが目立っちゃう。汚れた心でどんなに信じようとしても、そこから真実は出てこないんだ。
そんな僕たちのために、阿弥陀様は願いをたて、修行をされて、真実の信心を回向してくださっている。そのはたらきに自分のすべてをおまかせする以外に、僕たちが仏に成る道はないんだよ。