蓮如上人御一代記聞書16
「聖人の御罰」
あるとき蓮如上人は、弟子たちにお話になったよ。
たれのともがらも、われはわろきとおもふもの、一人としてもあるべからず。これしかしながら、聖人の御罰をかうぶりたるすがたなり
誰もみな、「自分が悪い」と思っていない。しかしこれは、親鸞聖人の御罰、つまりお叱りを受けた人のすがたですよってね。
僕たちはみんな、自分が最高の善人だなんて思っていない。けれども、最低の悪人だとも思ってないよね。真ん中より少し上ぐらいの善人と思っているんじゃないかな。だから人のやることを見て、愚かだなって思ったり、いらついたり、怒ったりするんだね。
でもそれを蓮如上人は、親鸞聖人が嘆かれますよと教えてくださっている。
親鸞聖人は、ご自身を「我が力では仏に成れない虚仮不実(うそいつわり)の凡夫」とご覧になり、悲しまれたんだ。
浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし
(正像末和讃)
浄土真宗の教えの第一歩は、自分自身を最低の凡夫と見定めること。これがないと、阿弥陀様の願いを「自分のための願い」と聞き受けることができない。自分が悪人だと知ることは、本当に大切なんだよ。
続けて蓮如上人は、「自分こそが正しいという思いをひるがえしておくれ。そうでないと、長い間、地獄に深く沈むことになるぞ」と心配されている。そして、それは「真実に仏法のそこをしらざるゆえなり」と言われるんだ。
仏法の底とは、この私が「自分がかわいい」の心にとらわれて、そこから一歩も出られないこと。けれども同時に、こんな者だからこそ阿弥陀様の願いがかかり、救いとって捨てない慈悲の心に包まれているということに気づくことさ。
「浄土宗の人は、愚者になりて往生す」という法然聖人のおことばは、このことをおっしゃっているんだよ。